地方性の文化的価値


   一

 ここに「価値」というのは、経済上の用語ではなく、哲学で用いられる意

味に於いてである。謂わばものの究極的本質性を指すのであって、例えば正

しきもの、美しきもの、善きもの、健やかなものなど、吾々の理念を満たす

ものをいうのである。美学や倫理学を価値学と呼ぶのはその意味である。

「これは衣服である」という言葉を挙げるとしよう。この判断は単に存在す

るものに就いて述べているに過ぎない。然るに一度「これは美しい衣服であ

る」と云い改めるなら、もはや単なる存在への記述ではなく、その着物が有

つ美的価値を断定しているのである。謂わばここに価値問題が加わってくる

のである。

 近時民俗学が発達するにつれて、地方的風俗、伝統、言語などに対する注

意が異常に喚起せられた。そうして今日までとかく閑却されて来た地方の存

在が、新しく学問的興味を惹き起こして来たことは祝福すべき現象である。

この民俗学に於いては既に卓越した学徒は二、三に止まらず、又印行せられ

た著作も既に数が多い。併し民俗学の性質上、それは問題を価値認識には進

めない。只事実や存在の領域がその対象である。例えば「藁靴」という題材

をとったとしょう。その歴史、形態、分布、材料、種類、系統などに就いて

は、詳しく報告するであろう。併しそれが美しい藁靴であるか、醜いもので

あるかは別に問わない。又同じく材料のことを扱うにしても、なぜこの材料

なるが故にこの美しさが出るか、又どうしてかくかくの構造が美しさを生む

に至るか、そういう問いには触れてゆかない。謂わば価値問題は論外に置か

れているのである。それ故民俗学の隆盛は何も美学や倫理学の発展を伴わな

い。かくして地方文化の価値問題は殆ど今も尚等閑に附せられていると云っ

てよい。

 地方の工芸に心を惹かれる私達は、必然地方的作品の美的価値に就いて想

いみないわけにゆかない。従ってかかる美を産むに至らしめる社会性や道徳

性や、更に遡ってその生活の本質にまで問いを進めねばならない。地方性の

文化価値は当然もっと議論せらるべき題材であろう。

 併し最近この問題が偶々私達を刺激した理由は、国語問題を廻って、沖縄

県学務部と吾々との間に起こった論争に端を発する。中心となった問題は、

学務部が沖縄の方言を極力弾圧し、沖縄人の言葉を所謂標準語一式に変えよ

うとしている点にある。これに対し吾々の立場は、標準語の奨励と共に沖縄

語の価値をも尊敬せよというにある。この問題は言語に関することに過ぎな

いが、吾々が一層重要な対象とする点は地方性の文化価値に対する認識であ

る。言語といわず、その生活や、風俗や、道徳や或は技芸に地方的なるが故

に生ずる大きな価値があることを主張するにある。恐らくこのことへの認識

は都会との対比に於いて、著しく容易さを増すであろう。都市の生活が進む

につれて、同時に地方性の価値が認知されねばならぬというのが吾々の主張

である。なぜなら地方は文化価値の豊富なる蔵庫と目せられねばならないか

らである。


   二

 東京に生まれ東京に育ち東京を好む私はしばしばこう省みる。こういう生

活でよいのかと。都市が有つ様々な特権に就いて述べるのは寧ろ易しい。都

市は一国の文化の程度を反映するとも云える。特に東京は日本の中心である。

新しいものへの動向が、ここほど溌刺と躍動している所はない。而もその力

は大きい。あらゆる文化面に於いて日本の生命の中軸をなしているのは言う

を俟たない。ただに政治の中心であるというのみではない。学芸に於いても

言語に於いても亦風俗に於いても、殆ど凡ての尖端を進んでいることが分か

る。それは今や世界的標準に上ろうとしている。東京は常に前進する。恐ら

くその迅速な変化に於いて、世界にも類例の稀な都市であろう。ここ半世紀

の歴史の跡を振返れば、市街の外貌も生活の内容も殆ど一変して了った観が

ある。

 併し驚くべき力と早さとで進出するこの都市の生活を眺めて、果たして何

がどれだけ進歩を示したかを省みる要があろう。なぜなら前進は必ずしも進

歩を意味しないからである。都会は良きにつけ悪しきにつけ前進する。若し

誤った部分があるとするなら、その前進には退歩に等しい意味があろう。私

は特に二つの点に於いて都市生活の欠陥を見ないわけにゆかない。第一は価

値量が非常に乏しくなって来たことである。真に正しいもの、美しいもの、

健やかなものが見失われて来たことを否むわけにゆかない。第二は日本性が

弱まって来たことである。多くのものが外国への追従である。それは色々と

吾々に役立っているであろう。併し不必要な模倣が無数に群がるではないか。

私は卑近な例で実状を見よう。


   三

 都市の風俗は憧がれの的であろう。銀座を往き来する女達の着物は、世に

も美しいものと思われるであろう。だが染織の実情を知っている者は、如何

に彼等の纒う大部分のものが、偽りのものであるかを熟知している。昔のも

のに比べるなら、材料は遥かに落ちたのである。染料はもう本染ではない。

間に合わせの便利なものを用いるに過ぎない。而も色調の俗悪さは歴史にも

ないほどである。織は機械のためにとかく冷たい。どんなに華やかに見えよ

うとも、行く末美術館に飾られて日本の名誉を語るようなものではない。こ

れを生産する機械や、工場や、組織や、資本や、昔に比べて二歩も三歩も進

んではいよう。併し出来る品物の結果は惨めである。おお方は商業主義の犠

牲であって、何も利得のために作られるに過ぎない。どうして実用が第一の

念願であり得よう。そこには生産の経済はあっても道徳はない。かかる事情

の許で、どうして正しいもの美しいものが生まれるであろう。見る者が見れ

ば、都市の女達の今の着物は殆ど皆誤魔化しものばかりである。一度これ等

のものを価値の鏡に映す時、拾い得るものは一割にも充たないであろう。僅

かの数寄者が、高い金で、本当の品を註文するに過ぎないのである。染織の

世界は驚くべき前進をする。だがそれは変化に過ぎないのであって進歩では

ない。出来たものは昔のに比べてどんなに見劣りがするであろう。女達は識

らないで俗悪なものを得意で着る。

 銀座の町を去って、遠い孤島の那覇に来たとする。場面は非常に違う。文

化に遅れたと云われるこの土地の女達は、識らずして素晴らしいものを不断

着にさえ用いる。彼等の着物の質に織に染に模様に若し醜いものがあったら、

それは中央のものを真似たものに限る。一度沖縄で生まれ沖縄で育った着物

に返ると、凡てが正しく美しく健やかである。彼等のものを即時に美術館に

陳べたとて不思議はない。遅れていると誰も蔑む手紡や手織や本染の仕事で

ある。それも小さな家庭の工房から生まれてくる。何もかも新しさからは遠

いのである。彼等は時代の流れには棹ささない。しばしば一と所に止まり時

としては遡ることさえあろう。だが一度価値の標準に照らされる時、彼等の

高い位は動かない。貧乏な沖縄の女達は、豪奢な銀座の女達よりも、もっと

正しく美しい着物をつける。この驚くべき矛盾をどう考えるべきであろうか。

 簡単極まる地機から、複雑極まる織機への推移は確かに前進である。だが

出来上がったものは美しさに於いて、どうしても退歩である。今までのより

更に美しく健全なものを示した場合がないからである。知識に於ける勝利が、

価値に於ける敗北で終わったのである。文化をこの矛盾に止めてよいであろ

うか。

 私はここで近頃やかましい「スフ」を引き合いに出すことが、最も賢明な

説明の役を勤めるように思われる。「スフ」の粗悪性には誰も苦い経験を抱

いているからである。この新繊維の発見とその工業化とは近代科学の著しい

前進を意味する。それは新しい資材を開拓しようとする科学者や実業家達の

厭くことを知らない努力の賜物と云える。だがこの前進を一度価値標準に齎

らす時、果たして在来の木綿より進歩した繊維なのを語るであろうか。若し

進歩の名を許すなら、あらゆる意味に於いて木綿を凌駕する性質を示さねば

ならない。

 併しその軟弱性に対する怨嗟の声は既に久しい。科学者は「スフ」に於い

て繊維の歴史に一物を加え得たのである。だがその内容をまで増大したと考

えることは出来ない。発見は前進であろう。躍進ですらあろう。併し木綿に

比べ後退した謗りを免れることは出来ない。吾々の科学が成すべきことは進

歩と改善とではなかったろうか。そうしてこれ等の内容には当然価値に於け

る発達も含まれるべきではないか。科学者も実業家も価値の世界には盲目な

のであろうか。機械は価値の前に未だ力が弱い。それは幾多の便利を提供し

たであろう。併し便利が幾多の価値を犠牲にした罪を見逃すわけにゆかぬ。

 何も染織の世界に於いてのみではない。都市の百貨店から真に美しいもの

を選ぶのは殆ど徒労に近いのである。彼等の跳梁は一つの力ではあろう。併

し内容の貧しさを被うことは出来ない。都市に栄える流行が、質的に見て大

方空虚なものに過ぎないのは、多くの人々の気付くところであろう。それは

たあいない変化である。流行が価値を伴うならこの上ないが、今日の事情で

は望みのない望みに近い。

 私は美的価値以外の価値に就いて多くを述べる要はないであろう。都市の

生活が道徳的価値に於いて、如何に多くの欠陥を有つかは寧ろ常識であろう。

一国の犯罪の大部分は都市に集まる。人口の密度にも因ろう。併し都市の文

化そのものの性質に起因するものが多いのを否むわけにゆかぬ。都会人は個

人主義者である。醜い多くの競争がここで行われているのである。善人は生

活に敗れるようにさえ見える。そうしてここはあらゆる病的なものの中心で

ある。精神の疾患、肉体の病弱、その代表的な実例はいつも都会人が供給す

る。


   四

 都市の文化はその時代とその民族との生活を代弁する。だからその国が保

つ最高の文化度をここに見出し得ると考えられ易い。最も新しいものは最も

優れたものであるという見方は、容易に人々の頭からぬけない。実際幾多の

面に於いて、最も洗練せられたものは都市の文化に見出せるであろう。だが

不幸にも常に価値と結ばれているものではない。

 大体都市が保有する文化の方向は、国際的特質である。あらゆる国の文化

が、この都市に於いて摂取される。特に交通運輸の発達は、このことを容易

にさせた。だからしばしば都市の様態は国際的雰囲気を示してくる。だが同

時にそのことは民族の特異性を失うことをも意味してくる。

 再び東京の中心であるあの繁華な銀座に例を取るとしよう。私達はそこに

新しい時代の生活をまともに見ることが出来る。だがここで見られる日本の

姿は、日本自体の姿であろうか。そうではない。多分に国際性を帯びた姿で

ある。特に欧米文化を容赦もなく受入れた日本に於いて、それは半欧米の都

市だとも云える。よくとれば世界の日本がここにある。併し日本を見に来る

世界の人はここに来て失望を禁じ得ないであろう。そこは日本の固有性の最

も稀薄な場所だからである。建物から風俗から、店々の装飾、列べられてい

る品々、それは洋風なものが大部分である。ここに却って近代日本の特色が

あるとしても、それは日本の大きな名誉とは云えぬ。他からの影響に堪え得

ない自己の弱体を露出しているとも云えるからである。よくとれば世界に順

応した国際的様式に高まったとも云えよう。だがそれだけ他律的存在なのを

如何ともすることが出来ない。東京に日本が反映するが、併しそれは唯一の

日本でもなければ、日本らしき日本の姿でもない。東京は上海と余り多くの
                ロンドン ニューヨーク ベルリン パリ
差違を見ない。更にその或る個所は倫敦、紐育、伯林、巴里と、そんなにも

かけ離れた存在ではない。欧米の人は東京に来て、新しい日本の生活様式が、

決して日本的なものでないことを見出すであろう。そうして日本でない新し

い生活は、欧米人自身、厭きるほど自国で経験して来ているのである。だか

ら東京を野暮な二流三流の西洋と感ずるであろう。欧米の焼き直しが臆面も

なく出ているのを見のがすわけにゆかないからである。躊躇なく世界のもの

を受け容れるということに、日本の進歩性を見る人はあろう。併しそれは余

り讃美すべき様態だとは見做し難い。栄養を外に仰いでいる特殊な時代に外

ならないからである。若し日本が東京だけの日本なら、日本は他律的な追随

的存在に終わるであろう。一面最も躍動する日本の相を示してはいるが、一

面日本的なるものの最も窒息した状態である。よくとれば普遍性を帯びると

も云えるが、反面には特殊性に乏しい存在なのを被うことが出来ない。都市

は普遍性に於いて意義があろう。併し日本性の微弱は、その都市から独立性

を奪っているのである。日本が凡て東京の如きものに変わることは日本の名

誉にはならぬ。

 都市は容赦なく前に進む。それは一つの勢いにまで高まってゆく。だがど

んな価値標準を有ち得たか、どこに日本的なものを豊かに示し得たか。


   五

 併し日本には「ここに日本がある」と言い切るものがないであろうか。価

値に於いて卓越したものが何処かにないであろうか。このことに対し都市が

寄与するものはいたく少ない。だが幸いにも地方が厳然とした存在で吾々の

前に現れてくる。不思議な命数であるが、僻陬の地として悲しまれ、文化に

遅れたといわれる遠隔の地方に於いて、日本の存在が最も明瞭にされる。あ

の雪に埋もれる東北や、陽の灼きつく琉球の如き最も適切な実例となろう。

 一般に田舎は文化の遅れた所と考えられる。交通の不便や、保守的な気質

はその生活を現代の進歩から隔離せしめ、やがてこれが文化の停滞や退歩を

齎らすのだと考えられる。特に政治や経済の中心から遠のくことは、様々な

施設の不備を意味してくる。それに人口は少なく経済の力は弱く、何もかも

立ち遅れてくるのである。都会の人々がしばしば侮蔑の眼なざしを以て見る

のは、地方人が文化の尖端に触れていないからである。「田舎くさい」とい

う言葉は凡ての形容詞を代表する。そこは野暮な遅鈍な場所と思えるのであ

る。

 実際地方の暮しは農を本とするから、政治や商業や学芸の分野に触れるこ

とが少ない。従って国際的潮流からは隔離された存在である。性質は頑固で

あり、しばしば愚直であり、進み方は遅々とし、時としては足踏みし、時と

しては逆戻りさえする。都会に比べるなら新時勢の恩沢に浴することが少な

い。遅れていると評される理由は十二分にある。

 だが凡ての点で劣っているであろうか。土地の人達自身も大方識らないで

終わるであろうが、彼等の暮しや、信心や、本能や、習慣や、技術や、言語

は、驚くべく豊富に価値の世界に触れているのである。よく都会が示し得な

いものを示しているのである。彼等には迅速な前進はないであろう。併し誠

実な歩行があるのである。彼等には華麗な服飾はないであろう。併し模倣の

ない自身の風俗を保つのである。彼等には科学の知識が乏しいであろう。だ

が篤実な信心が握られているのである。彼等には尖鋭な文学が栄えないであ

ろう。併し質実な表現があるのである。文化の動きは鈍くとも、誠なるもの、

正しいもの、美しいものの数々が、彼等の暮しや技や、身なりや、言葉に含

まれている。あの新しさを誇り進歩を名のる都市の生活に比べてみよう。劣

るものは山々あろう。併し勝るものの数々をも挙げないわけにゆかない。

 農村の道徳はもっと誠実ではないか。質朴ではないか。都会の人々はどん

なに狡猾になっているであろう。田舎の生活はもっと協存的ではないか。都

会の者の個人的な、そうしてしばしば利己的な暮し方と、どんなに差違があ

るであろう。百姓の肉体はもっと健全ではないか。文化に浴する者の不健康

な精神や疾病に比ぶべくもないであろう。土着の工芸はもっと美しい姿を示

すではないか。ここでは製作の道徳がずっとよく保たれているからである。

あの誤魔化しの多い都市のものが、どんなに見劣りするであろう。美しく見

えるのは外側だけではないか。地方の人々こそ、もっと日本的なものを強く

示してくれる。彼等は外国に依存してはいないのである。土地の伝統を守り

民族の習性に活きているのである。彼等にも多くの弱味はあろう。だが都市

が失いつつあるものに於いて地方は却って輝いて見える。遅れていると云わ

れるのは寧ろ形の上でのことに過ぎない。質に於いて如何に豊かに価値の世

界を有っているであろう。

 美に対する彼等の本能はまだ健在なのである。彼等自身の伝統に立つ時、

彼等は決して誤謬を犯しはしない。彼等は新しい文化の流れを知りはしない

であろう。従って科学の力に依る所は少ないであろう。だが彼等の背後には

その地方の自然が加担している。そうして祖先の智慧がこれに味方してくれ

る。而も質朴な土地の風が、道徳をよく保持してくれる。かかる環境の中で

彼等の心が働き、彼等の手が働くのである。だが都市の風はそうではない。

人間の智慧は自然を征御しようとする。近代の知識は祖先の経験を疎んじよ

うとする。そうして利潤の前には、道徳をも犠牲にしようとする。これ等の

対比から、ものの性質は右と左とに分かれてゆくのである。価値の濃度に於

いて、如何に地方の農民が豊かなものを有つかを否定することが出来ない。


  六

 私は過日引きつづいて琉球に旅し、転じて東北の六県を訪ね、それ等の土

地で、幾多の純粋な手工芸を見ることが出来た。そうして伝統によるそれ等

の作が如何に美しいか、如何に正しいか、如何に豊かに日本的な特色を今も

保っているかをありありと見ることが出来た。

 例えば沖縄の芭蕉布を挙げるとしよう。ここで外来の指導者が作らせたも

のは除かねばならぬ。だが彼等自身から生まれる布に、醜いものを探すのは

無益である。あの都市の百貨店に於いて真に正しいものを見出すことが、如

何に困難なのかに思い当たらねばならない。だが作者達は村の女達に過ぎな

い。美が何であるかを詳にしてはいない。だが誤りをいつ犯したであろうか。

織に於いて、染に於いて、紋様に於いて、素晴らしい結果を見せてくれる。

これに比べどうして科学が加担する仕事が結果に於いて貧しいのであろうか。

 私は更に一例として東北の蓑を挙げよう。奥羽は世にも美しい蓑の産地で

ある。日本の多くの人々はこれ等のものの存在を知らない。それはつまらな

い農民の品と考えられ易い。だがそれは日本の技術の卓越した一面を常に物

語ってくれる。材料に於いて、編み方に於いて、紋様に於いて、色調に於い

て殆ど間然するところがないのである。而もそれ等の美は実用性と隔離した

場合がない。蓑は直接都市の生活に必要はない。併し私達はここで工芸の本

質や美の法則に就いて、多くのことを学ぶことが出来る。だが私達はどれだ

けの美的価値に関する真理を都市の服飾から汲み取ることが出来るであろう。

而もそれ等の蓑はどこまでも土地の所産である。土地のものがあってこそ、

日本の存在が確実に報告されるのである。

 日本を親しく見つめようとする人は田舎に入らねばならぬ。そこには日本

の厳然とした存在があるからである。日本が若し地方の文化を失うなら、日

本と呼ばるべき特色の何ものをも失うに至るであろう。地方こそは日本的な

るものを保有し建設する貴重な単位である。日本の血の交り気のない流れは、

地方にこそ見出されるのである。そこで民衆がよく日本的なるものを支えて

いるのである。人々はそれを時世に遅れたものと呼ぶかも知れない。進んで

はかかる日本に新しい日本を見出し得ないことを指摘するかも知れない。併

し真の日本を尚も外国に依存せしめてよいであろうか。外来のものを摂取す

る時期はもう熟し切ったではないか。日本が自から有つものに反省を向ける

時期は来ているのである。今や日本固有のものの上に日本を再建すべき時代

が到来したのである。今後も外国を学ぶことに懶惰であってはならない。併

し日本自からを学ぶことにもっと勤勉であってよいではないか。文化は国際

的に拡げられると同時に民族的にも深まらねばならぬ。かかる反省が起こる

時、地方の文化価値は勃然として意義を高めるであろう。遅れていると蔑ん

だ地方の文化は都市の吾々が及びもつかない力を見出すであろう。そうして

その富の最大なものは二つある。一つは地方文化が保有する価値量の豊富さ

である。一つはそこに見られる日本固有性の確実さである。

 都会は急進する。だが地方より遅れて了ったものが多々あることを反省せ

ねばならぬ。文化の健全な発達に対して、地方が寄与するものはいたく大き

い。その意義はもっと認知されねばならぬ。そのことへの反省こそ来るべき

都会人の大きな使命と云えるであろう。都市の文化は固有なもの、純正なも

の、確実なものを常に地方の文化から汲み取らねばならぬ。文化認識が都市

にのみ集中する時、その文化は変態な一路を辿るであろう。地方の文化価値

への認識なくして、国家は健全な発達を遂げることは出来ない。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『文芸春秋』 18の9 昭和15年6月】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)

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